意識の高い公務員のブログ

政令市で働く地方公務員のブログ(出向は役所のみ)。自治体職員にも民間の経営感覚が必要とされています。

年が明けて

あけましておめでとうございます。

このようなショボいブログですがご覧いただいている方々に感謝です。

 

元日は実家に帰っていました。去年帰っていないので。

で、祖母宅に行き、ご先祖様の遺品を見ていたのですが…

 

安政時代に書かれた歌(曾祖父の曾祖父が書いた?)

明治時代の地券

支那事変(日中戦争)の写真や記念品

日清戦争の記念品

等がありました。

まぁこういうのはどこの家(本家)にもあると思います。

日本史の勉強をするなら、こういう実物を見るのは重要だと思います。

地券なら、特に田舎に実家がある人ならば、お爺さんやお婆さんが取っているかもしれません。日本史の授業で地租改正というのを学びます。

でも、中学生や高校生に地租というのは馴染みづらい。大人になれば、「固定資産税」と言えば誰だってわかるでしょう。でも子供になじみのある税金は消費税くらいで、むしろ消費税を”税金”として認識していないかもしれない。

そんな時に地券という実物を見せれば、興味が湧くかもしれない。蛇足ですが、元々地券は税金を取るために使用していましたが、時代の変化により「税金を取る部門(税務署)」と「土地の所有者を把握する部門(法務局)」に変わっていったのですね。

 

戦争の記念品にしてもそうですね。

最近の戦争教育と言えば「戦争は悲しい、悲劇だ、だから二度としてはいけない」という教育ばかり。

この教育は間違ってはいない。しかし同じ教育ばかりでいいのだろうか。

当時は志願兵もいた。戦争に行くことが嫌な人もいれば、進んで行った人もいる。そんな時代だ。

そして、戦争から帰ってきたら役所や国から記念品が与えられた(杯だったり債券だったり)。

私の曾祖父は支那事変(日中戦争)で支那に行った時、杭州等いろんな場所で写真を撮ったようで、その時の写真がコメント付きで残っていた。

今の世代が仮に戦争に行ったとしたら、「第1戦線なう。敵が近いなう」とか言って写真付きでSNSに投稿したりするのだろうか。

そういえばアラブの春SNSで拡散したのだったな…。

 

いろんな角度から物事を見たいものだ。

誰のためのシティプロモーション

先日、他の自治体で働いている友人が、「うちの自治体がシティプロモーションのパブコメを出している」とのことだったので、シティプロモーションの要綱を読んだ。

まぁいつも通りというか、テンプレ通りの要綱だった。シティプロモーションの要綱に書いてあるのは以下のようなこと。

 

【課題】

・人口が減少し、税収が減るのでサービスが低下します。

・人口が減少し、活力が失われます。

等【やること】

・子育て世代が住みやすいまちづくりをします。

・行政、民間、その他関係機関が一緒になってオール○○市でプロモーションをします。

等。

 

まず人口が減少するからサービスが低下するというのは意味がよく分からなくて、税収が減っても人口が減るのであれば使う金も減るはずであり、そもそも今の時点で行政サービスが満足いくものかというとそうでもない。まぁ流石に1つの自治体の人口が全員65歳以上になってしまったら某Y市みたいになるかもしれんが、そうなる頃には国が何か手を打っているだろう。

人口が減少すると活力が失われるというのも謎で、人口が多かろうと少なかろうと若い人は遊べるところで遊ぶし高齢者だって行ける範囲で生活する。活力とはなんぞや。そもそも今の時点で貴自治体は活力があるのか?だったら商工関係の予算は福祉や建設に回そう!

 

そして、最も違和感があるのはこれだろう。

行政、民間、その他関係機関が一緒になってオール○○市でプロモーションをします。

え!?何それ聞いてませんけど!

そもそも行政以外も巻き込むんだったら、要綱策定段階から市民の意見を取り入れるべきでは!?

いつものように行政主導でテンプレ要綱を作ってパブコメという儀式。

一体だれのためのシティプロモーションなのだろう。

 

そもそも、まちづくりというのは公共と民が協働で行うべきものだろう。

税収を得るために人口を増やすのであれば、民は金でしかない。

税収が良い自治体は潤っているかもしれないが、発達している自治体というのは公と民がそれぞれの役割を果たしている自治体を言うのではないだろうか。

だとすれば必ずしも若い人を呼べばいいわけでもないはずだ。自治会活動やまちづくりに興味のある人に向けたプロモーションがあってもいいはずだ。

だが日本人は行政に興味がない。市民が単なる税源に留まってしまっているのは、市民自身の責任なのかもしれない。

 

 

グローバルについて。その1

グローバルな視点

グローバル化

グローバルな考え方

とは?

 

地方公務員(≒役所職員)であっても、研修の目的なんかで、「実地研修を行うことでグローバルな視点を養う」とか書いてあったりする。

地方公務員にグローバルな考え方が必要ならば、おそらくどのような仕事についていてもグローバルな視点は必要だ。特に単純作業やキツイ作業をする職種の人には必須かもしれない。何故なら海外から移民を日本に連れてきてそういうところで働かせる可能性があるからだ。移民には言葉が通じないから、難しい作業はできない。簡単な、つまらない作業なら従事させられるだろう。

 

さて。グローバルの定義が難しいので、「海外と関係を持つこと」とでも考えておこう。役所が海外と関係を持つメリットはいくつかある。

姉妹都市間で学生の交換ホームステイ

姉妹都市に特産品を売り込み

・災害時の救援

等。こういうのは大体、秘書課とか商工課が担当していると思う。

そもそもなんでグローバル化が必要なのか。時代をさかのぼってみる。

 

<1:明治時代の学び>

江戸時代末期、薩摩藩はイギリスの戦艦を見て外国にはかなわないと悟った。長州藩も同様である。これにより倒幕へと傾いていく。

明治政府で有名な岩倉使節団は、アメリカへ条約改正の交渉のために向かい、地球をぐるっと回ってヨーロッパを見て日本へ帰ってきた。

要するに、当時の日本は海外に比べて遅れていたのだ。だから先進国を見て回る必要があった。現在、日本は先進国なので、JICAを通じて途上国から視察に来る外国人がよくいる。途上国が先進国を参考にする仕組みは1世紀以上前から変わっていない。

ちなみに、条約改正の交渉は失敗している。何故なら当時の日本は国際的なルールを知らなかったから、交渉の方法がわからなかったのだ。具体的に言えば、自分たちが何者なのか(=国のトップである天皇使者であること)を証明できなかったのである。そういう失敗をして、日本は海外から多くを学んだ。

 

<2:留学数が減ったワケ>

今となっても、日本と海外では文化が違うので、学ぶことはいくらでもある。しかし昔ほど学ぶことが多いかというとそうでもなく、むしろ日本は学ばれる立場にある。高齢化問題は海外も注目している。海外へ留学する大学生が減っているのもそこに一因がある。わざわざ海外で学ぶ必要がない。国内だけでも十分学べる。インターネットもある。勿論、深く学ぶためには現地に行くことに勝るものはない。しかし、浅く学ぶだけならばインターネットや文献で十分なのだろう。実際のところ、文科省によれば留学しない理由としては経済的な問題や単位が認定されない問題など、そういう理由が強いのだが、そのような問題は留学が盛んだった90年代にもあったはずだ。となれば、学ぶ必要のなさや海外の治安の悪さが隠れた要因であると推測できる。

 

<3:今、海外に何を求めるか>

学ぶことが理由で無いならば、次の求めるのはお金である。80年代頃から日本の企業が海外進出を増やしていき、アメリカではジャパンバッシングが起こった。当時、アメリカはベトナム戦争で金がなかった上に日本製製品に押されてモノが売れないので、日本をバッシングする運動が起こった。そこまで日本は成長していた。

今、日本は衰退期にある。日本国内で消費は見込めない。ならば成長著しい中国やインド等のアジア方面に消費を求めるのは合理的考えと言える。

 

<4:日本にとって良いグローバル化とは…>

○○大学の卒業生が海外で頑張っています!○○市出身の××選手が海外で活躍しています!こういったことはその大学や自治体にとって誇りだろう。しかし、冷静に見つめてみれば、だからと言って日本にお金が落ちるわけではない。自国の文化を理解し、海外の文化にも教養がある有能な人材が海外に流出する。これは人材の貿易赤字である。

そういった有能な人材は日本にとどまって日本に貢献するのが、日本経済にとっては良いことなのではないだろうか。外国人にしても同じだ。日本で外国人を日本で働ける人材に教育し、日本で働いてもらう。移民問題の解決策の1つもこれだ。日本は移民の受け入れに慎重である。それは正しいと私は思う。そこで、海外に日本の大学の出張所を作り、そこで移民を受け入れて教育し、日本に輸入するのはどうだろうか?

日本語を話せて、かつ生まれた国の文化をわかっている人材を日本に獲得できる。中東付近で言えばトルコにそういう出張所を作ることはできないのだろうか。

 

…海外事情にはあまり詳しくないのでまた勉強します。

タイトルに「その1」とついているので、その内「その2」を書くかも。

以上。

学歴社会の是非

学歴社会について。

まず、学歴社会とは何か?というのを簡単に定義づけておく。

・最終学歴により会社等の採用の合否を判定する

・最終学歴により賃金を決定する

・最終学歴により入社時の職種やポストを決定する

このような社会である。

 

日本は学歴社会なのか?というと表向きはそうではない。どこの会社の人事に聞いても、学歴は考慮していないと答えるだろう。精々、大卒かどうかを見る程度だ。

個人的には日本の学歴はアテにならないと思っている。ご存知の通り、どこの大学を出ても優秀な人間は優秀だし、ダメな人間はダメ。他の条件が同じでどうしても決められないときに最終学歴を見るかもしれないが、そのような状況は珍しいと考える。

重要なのはどこの大学を出たかではなく、何を大学で学んだかだ。

 

では学歴社会のメリットとは?ということを考えてみる。

まず1つに学生が勉強するようになる。そして大学進学率が増える(大学関係者はOECDのランキングで日本の大学進学率が低いことを気にしているらしい。個人的にはどうでも良いと思うんだが。)。

大学でもまじめに勉強するようになる。これは学歴社会を作るならば、大卒=優秀という方程式を作らないといけないから。

あとは財源の創出。採用の際に学歴枠(特定の学歴の人物のみ応募可能な枠)を設ける。そして初任給を一般枠より少し下げておいて、その金の差額を他の事業に充てる。

アメリカは学歴社会なので、大学のおかげで良いとこに就職できた!寄付しよう!という文化があるらしいが日本では寄付は望めないだろう。よってこのようにする。

 

一方でデメリットも存在する。

間口を狭めることで、本当に優秀な人材を確保できなくなる。残念なことに、今の日本はいい大学を出たから必ずしも社会人として優秀とは限らない。中国の農村にエリートが眠っているかもしれないのと同様に、底辺大学に金の卵が眠っている可能性は大いにある。これを解消するには大学で社会人になってから通用する勉強を徹底するしかない。ついでに、大学での成績まで採用時に考慮する必要があるだろう。今の日本は成績まで見ていない(私の勤務先では成績証明書の提出を求められたが多分見ていないだろう。私の大学時の成績は散々だった。ただ、最終学歴だけ見れば新卒同期で一番いい大学を出ている。)。

 

更に、問題も存在する。

学歴社会にするならば、国民全員に大学を受験する機会が与えられる必要がある。つまり、経済的理由で大学に行けないということがあってはならない。これは給付性の奨学金にも関係する話だ。まぁ、これは成績優秀者に対し給付してもいいかもしれない。有名な話だが、アメリカの大学は日本より学費が高いし奨学金だって借金である。日本は給付性奨学金やら大学の世界ランキングやら、各国の事情をごちゃまぜにして考えているからややこしい。

 

まぁ、学歴枠は人事に提案してもダメって言われそうだけど、何となく思いついたので書きました。おしまい。

 

公務員試験にSPIってどうなん?

電車に乗っていると、公務員試験の広告が壁に貼ってあったりする。

金のある市役所はそうやって、優秀な人材を取ろうとしているらしい。

で、ホームページで具体的な内容を見てみると、SPIや集団討論やプレゼンを試験科目としている役所もある。プレゼンて。

確かに、先行き不安定な現代、公務員志望の大学生は多く、採用試験にも無駄に金がかかる事態が続いている。

表向きは、「試験勉強不要!あなたの内面を見ます!」と書いておいて、プレゼンをやらせるのは良いことかもしれない。自分に自信のない人間はプレゼンなんてやらないので受けに来ない。

SPIはどうか。

ぶっちゃけ、「SPIだからこの役所を受験した」というのは、「勉強重視じゃなく、中身を見てくれるから」という意味ではなく、「対策不要で簡単だから」である。

SPIは某R社が儲けるために作ったテストであり、問題の傾向としては公務員試験の判断推理や数的処理に近い(それらより簡単)。

SPIは学力や知識以外でなく、人物的な側面を見られるテストとして好評らしいが、残念ながら実態はそうではない。私はいくつかSPI受験の役所を知っているが、そこの職員が人間的にできているかというと全然そんなことはない。勤務中にいきなり泣き出すメンヘラも一定数存在するらしい(伝聞)。

 

人間性重視というのはぶっちゃけ怪しい。

そもそもなぜ、人間性重視が流行ったのか?それは日本人のレベルが落ちているからではないかと私は推測する。というのも、昔は大卒というのは貴重な存在であり、大学に行った人はある程度勉強していた。しかし規制緩和(大学数増加やゆとり教育)により、レベルの低い大学生が増えた結果、大卒=優秀というわけではなくなった。また、それなりのレベルの大学にしても学生の数が増えたため、単純に出身大学だけでは比べることができなくなった。そこで出てきたのが人物重視ブームである。

だがぶっちゃけSPIは対策なしでも解けるし、問題集を1~2週すれば大体合格点が取れてしまう。そもそも人間性や人物というのが何なのか不明である。

私なら対策が必要な教養科目ぐらいはやっておくのを推す。そもそも教養とは自由になるための学問だとアメリカでは言われている(リベラルアーツ)。SPIに経済学や法律の知識は必要ないが、公務員になったらこの2つの基礎知識が無いと困る。世界史なんかも実は窓口や秘書課などで役に立ったりする。

というか大学職員~コッパンレベルの公務員試験ぐらいがちょうどレベルとしてはいいのでは!?

SPIで世間知らずの公務員が増えるのはもうコリゴリだ~~~!!!

 

学校で教えること―プログラミング、歴史について―

学習指導要領は変わる。

私が小学生の頃は英語もプログラミングも習わなかった。

高校で歴史総合といって日本史と世界史を横で学ぶこともなかった。

というわけで、これらの教育について考えてみる。

 

まず、プログラミングについて。基本的なことだが、プログラミングとはコンピュータにやらせることを考えることである。で、この「コンピュータにやらせること」をプログラムという。学芸会のプログラムは学生がやることである。同じような意味で考えていい。

そして、プログラミングに似た言葉に「コーディング」というのがある。小学校ではScratchというソフトを利用してプログラミングを学習しているようだが、これはプログラミングであってコーディングではない。コーディングとは、「プログラミング言語を書いて、プログラミングすること」である。

Scratchはコードを書く必要がない。iに3を加えたいとき、

「i+=3」と書くのがコーディングで、「【iに○加える】と書いてある画面の○の部分に3」と書くのがScratchのプログラミングである(これScratchの実物見たことある人じゃないと分からない説明かもしれない)。

小学生でプログラミングをやるなら中学校でコーディングをやらないと意味がないと私は思う。なぜなら、大人になったらコーディングができる必要があるからだ。

 

次に歴史について。近現代史は日本史と世界史を一緒に学ぶらしい。これを歴史総合と呼ぶとか。確かに、江戸時代までは日本史と世界史を分けていてもなんとか学習できるが、明治時代からは日本史も世界史の一部と考えるべきだと思う。まぁ世界史を日本史の一部としてもいい。ただ、世界の動きの一部として日本の歴史を理解することは重要だ。

例えば「日ソ共同宣言」はなぜ「共同宣言」なのか。それがわからないと北方領土の問題もわからない。そもそもサンフランシスコ平和条約が何なのかわからないと、日ソ共同宣言もわからない。これまでの高校歴史は雑学王養成科目になっていたので、覚えることが多く、近現代史はやる時間がなかった(私の高校でも近現代史は速足だった)。本当は近現代史こそ重要かつ面白いのに。

英語も重要かもしれないが、グローバルだのなんだの言うなら海外の言葉だけじゃなく文化や歴史を学ばないといけない。特に宗教は日本にはなじみがないが、海外では何らかの宗教を信仰している人が多い。ローマはキリスト教なのに天皇がいる日本は天皇教という宗教がない。強いて言うなら憲法9条教というのがあるかもしれない。

自国と他国の歴史を学ぶことは重要になってくると思う。

時代が進んでいく

スマートホンのワンセグは受信設備の設置になるのか?

ということでNHKが受信料を取ろうとしているらしい。

地裁では、スマホの持ち主は「受信料を払わなくていい」という判断がなされた。

放送法ができた当時はスマホの存在を前提としていなかったのだろう。

 

フォードの名言にこんなのがある。

「もし顧客に、彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう。」

要は、車のない時代に車を想定できないということ。

 

法律だけでなく、ルールが時代に取り残されるということはよくある。

宗教なんかもその1つで、教典に固執する人を原理主義と言ったりする。一方で、同じ宗教でも時代や環境の変化に合わせて教典の解釈を変えたり柔らかくする人もいる。キリスト教は元々は偶像崇拝が禁止だが、今となってはキリストやマリアの像や絵をよく見かける。なんとなく聞いたことのある「安息日」に関する解釈もユダヤ教キリスト教では違う(念のために書いておくと、キリスト教ユダヤ教のルールをゆるくした宗教である)。

憲法9条もそうだ。戦後当時は武力を完全放棄すればよかったのかもしれないが、今の世界情勢を見ているとそうとも言えない。むしろ憲法9条は時代を先取りしすぎていたのかもしれないな。100年後の日本なら逆に通用するかもしれない。

 

新しいモノの登場(インターネット、ドローン等)により新しい法律ができたりするが、既存の法律を変えたり解釈するのは難しいのだなと感じる。